書籍詳細
- タイトル
- 新国際政治講議
- サブタイトル
- お陰様イズムの世界
- ペマ・ギャルポ / 内田 圭二 著
- あらすじ
- ポスト冷戦期における文明の衝突や民族紛争などに焦点を当てた国際政治学入門書。世界史や地政学などの現代政治学説を整理し、国際政治をふりかえる。そして、理論的な枠組を提示しながら、西田幾多郎の哲学に学ぶ「お陰様イズム」をもとに、日本が国際社会で果たすべき役割を見つめ直す画期的な内容。
- 判型/頁数
- 四六判/240頁
- 価格
- 2,500円(本体価格 2,381円)/ 在庫 あり
- isbn
- 4_86050_020_2
- 出版日
- 2004.7.28
はじめに
本著は中曽根政権から現在までおよそ20年近い日本政治の動きを検証したものである。最近の10年間、日本政治は「空白の10年」と称されている。55年体制が崩壊し、細川政権から小泉政権まで、さまざまな組み合わせの連立の時代が続いてきた。日本政治は新たな構図を示しえないまま混迷を重ねてきたのであり、その実態を「空白」と断じる見方も分からないではない。
筆者は、この10年間を「空白」として切って捨てる気にはならない。日本政治の新段階に向けての「産みの苦しみ」を体現した時代だったのではないかと思う。現に2003年の総選挙では、自民—民主二大政党時代に向けての構図が浮き彫りになった。これこそが、この10年間の模索の結果なのであって、次の総選挙ではさらに二大政党の構図が色濃く出るのではないかと予感している。
「空白の10年」といわれた時代の政治状況を論じるには、そこに至る「前夜」の考察を避けては通れない。中曽根政権は自民党全盛時代の最後の段階であった。55年体制は自民—社会両政党の対決時代といわれるが、実態は、「国対政治」が幅をきかせ、自民党と社会党の談合・なれあいの時代といって過言ではないと思える。冷戦構造を背景に、中選挙区制といういかにも日本的システムを反映した選挙制度の援護によって、自民党の一党長期支配、社会党の万年野党第一党という構図が固定化されてきたのであった。
そこに発生したリクルート事件は、政治とカネのいまわしい関係を露呈したのみならず、日本政治の根源的欠陥を浮き彫りにした。政治改革が叫ばれ、なかんずく選挙制度改革が主軸となったのである。それが小選挙区制を主体とした現在の選挙制度の導入に結びつく。政治改革は選挙制度いじりに矮小化された、などというしたり顔の論評をよく見かけるが、これは基本的に誤っている。中選挙区制という世界にもまれな棲み分け互助システムによって、どれだけ日本政治が壟断されてきたか。詳細は本文に譲るが、小選挙区制導入が日本政治の成熟化をもたらす最大の武器なのだということを指摘しておかなくてはならない。
中曽根政権は自民党の一党支配構造が根底から崩れ去る一歩手前に位置づけられるものだ。ろうそくが消える寸前にぽっと燃え上がる一瞬、それが中曽根政権ではなかったか。本著を中曽根政権からスタートさせたのは、日本政治の抱える問題がいずれ崩れ去るであろうということを予感させるポイントをいくつも見出すことができるからである。「空白の10年」といわれる時代がなぜ起きたか、その根源をさぐる作業に資すると思えるからである。
筆者は19四6年(昭和21年)生まれ、69年(44年)に産経新聞社に入社し、2002年(平成14年)夏に退社するまで、32年余りを新聞記者として過ごした。当初は社会部に在籍して、警視庁や東京都庁などを担当したが、福田政権当時に政治部に移り、以後、政治記者として永田町をまじかで見つめてきた。産経新聞社の人事のめぐり合わせによって、日本の新聞社で戦後生まれの政治部長第一号となった。退社の理由は、これも本文中で触れることになると思うが、政治の世界に飛び込もうとしたためである。その試みは私的事情もあって挫折し、その後は政治ジャーナリストとして再び日本政治を直近でフォローする仕事を続けている。
その一方で、産経新聞在社中から、慶應義塾大学院法学研究科、国士舘大学院政治学研究科の非常勤講師をつとめ、現在も続いている。慶應義塾では小林節教授のもとで憲法特別演習として、政治改革そのほかを扱ってきた。国士舘では「政党政治研究」という講座で修士課程、博士課程双方の講義と演習を担当している。
つまり、新聞社に所属する政治記者、現代政治を学術的に分析しょうとする研究者、さらに、政治の世界に当事者として自ら参画しようとした体験を持ち、そしていま、フリーのジャーナリストとしての立場で日本政治の考察を続けている。こうした複合的な体験を有する者はきわめて珍しいといっていいのではないか。口幅ったい言い方になるが、そうした立場から日本政治を検証していく作業は、それなりの意味があるのではないかと思う。
政治の実態を描いた著書は枚挙にいとまがないほど大量に出ている。巻末に参考文献を列挙したが、これはおそらく日本で刊行された著作のうち、ほんの一部であろう。当然ながら、それぞれ示唆に富み、教えられることも多い。だが、筆者は戸川伊左武〔確認!〕氏の「小説吉田学校」風の手法や、まったく逆に、専門研究者が行う学術的分析といったアプローチは採らなかった。
政治論評、政治分析は、評価する者の政治的・思想的スタンスによってずいぶんと異なるものになる。学術研究の場合は、個人的スタンスはわきにおいて極力、客観的であろうとする。筆者はあえて、自身のよって立つ位置を明らかにしつつ、もろもろの政治事象を解析しようと試みた。高みに立って見下ろすような視点では、きれいごとに終わってしまう。地べたをはいずりまわる姿勢では、あまりに政治の裏側や個々の政治家の思惑、政治事情などばかりを追いかけることになってしまう。そのいずれをも避けたかったのである。
政治現象を論ずるには、筆者自身の考え方、思想性を隠さずに、スタンスを明確にしたうえで検証していくという基本的姿勢があってもいいのではないか。筆者自身が隠れていて、生きた政治を検証していこうとしても、そこに建前やウソが出てしまうのではないかという点を恐れたのである。
この手法がどこまで貫けたか、自信はない。少なくも、そうした基本姿勢で原稿に向かおうとした点だけは読者のご理解を得たいと思う。新聞記者、大学院非常勤講師、選挙立候補予定者、そしてフリージャーナリストという少なくも4つの顔を持つ(あるいは一時的に持った)立場をフルに活用することで、日本政治の実態に切り込む手法としては、新たな地平が築けるのではないか。これを「政治検証学」などと名づけるのはいかにもおこがましいが、少なくも、そうした気概を持って臨んだことだけは確かである。
筆者が取り組んできた直近の日本政治の分析、検証作業はおそらくは道半ばなのであって、関係者の方々のご叱正、ご教示を待ちたい。このつたない著作が日本政治の改革や成熟、国民意識の転換といった方向に多少なりとも示唆するものがあるのだとすれば、筆者にとっては望外の幸いである。
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